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平成~令和へ

元号が平成から令和へと変わる。

私が昭和から平成へと元号が変わることを知ったのは、父の運転する車の中だった。当時7歳の私は元号発表のラジオを聞いた父が大層興奮していたのを覚えている。

「すごい。これはまさにお前の時代だ。」

父は言っていた。お前とは、私のことだ。

私の名前は「平峰 恒成」。名字の頭と名前の最期を足すと「平成」となるというわけだ。

父は一通り喜んだあと「よーし。恒成、今日はお祝いだ。何でも買ってやる。」と言った。当時平峰家は父の独裁政権のもと、とんでもない緊縮財政政策(要するにドケチ)を実行していたため、子供ながらに大変うれしかった私は、この一連の出来事を鮮明に覚えているのだろう。こういった発言を父がしたのは、この時が最初で最後(今のところ)であった。※父は存命中である。しかしその10分後父は正気に戻り、その言葉が実行に移されることはないまま今平成の時代が終わりを迎えている。

自らの名前の入った元号が終わるのは少し寂しいものである。ちなみに私の下の名前である「恒成」は、やはり独裁者であった父が名付けたものだ。自ら光を発する星「恒星」に「成る」ということで「恒成」と名付けたらしい。大変荷が重い名前である。私の時代であった(はず)の平成において、私が自ら光を発することができたかどうかは疑問が残るものの、新たな元号を迎えるにあたり、父との思い出や父の思いを感慨深く思い出した。父が私に望んだ(であろう)人生とはまったくの間逆に生きた私であるが、自ら光を発しなければならない「起業・経営」という道に向かったのはどうにも皮肉なものである。

そんな私も長男に「壱星」という名前を付けた。子供のころ「一番」になることを義務付けられ「一番」に執着していた私は、そのことに疲れ、他者と競争する道を降りた。その後、自らの信念を貫き、自らの道を歩くことに執着した私が、私の名前の由来を引き継ぎ命名した。他者と比較しての「一番」ではなく、己が実感できる自分だけの「一番」を見つけ、そこで光を発してほしいという思いから「一」を「壱」に変えた。

令和に変わる今年、中学3年生になる壱星は、どうやら自らの「壱番」を見つけているように思う。令和元年、息子がそこへ向かい、光り輝くことのできるよう私は願い、見守るばかりである。

平峰 恒成

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